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今回は社会学部の山口功二教授にインタビューしました。
プロフィール
基本情報
1941年和歌山県生まれ
同志社大学社会学部メディア学科教授
新聞学専門
担当科目
「ジャーナリズム史」
「メディア史」
「情報メディア論」
「比較メディア論」
主な著書紹介
「明治後期における地方言論の役割」(「新聞学評論」17号、1968年)
「ニュースの発見」(同志社大学「評論・社会科学」49号、1994年)
「メディア学の現在」(共編、世界思想社、1994年)
「メディア用語を学ぶ人のために」(共編、世界思想社、1999年)
連絡先
研究室:渓水館318号室
メールアドレス:koyamagu@mail.doshisha.ac.jp
Q1.同志社の新聞学を選ばれたのはなぜですか?
僕は作家志望だったんですよ。純文学の小説家になりたかった。出身は和歌山県なんだけど、中学校に公民館が併設されていて、そこの図書館の本はほとんど読んでた。文学少年でしたね。それで、高校3年の夏に東京の予備校に通ってたんですけど、僕田舎の出身だから東京は大変だなぁ、東京には住めないと思って、同志社に来たんですよ。本当は早稲田あたりで勉強したいなと思ってたんだけどね。なんで新聞学を選んだかって言うと、新聞記者になると書く仕事が出来るじゃない。それで新聞学選んだんですけど、自分で先生だったと思い込んでいる鶴見俊輔さんが東京工業大学をやめて同志社大学の方に来られることになって、それから研究とかが面白くなって、研究者になりたいなと思ったんですよね。それで、僕が大学4年のとき、ちょうどうまい具合に新聞学の大学院ができるという話があって、就職をやめて大学院を受けたんですよ。だから、僕新聞学の修士課程の第一期生なんです。
Q2.教師という仕事を選ばれたのは?
教授になるまで、僕はずいぶんと回り道してます。大学院を出て25の年から、松蔭女子学院大学の非常勤講師をやってて、教師としてのキャリアは長いんですけど、常勤の講師になったのは30を過ぎてからです。その間はいろいろな仕事してました。雑誌の編集顧問とか、進学セミナーの講師やったりとか、それから予備校に勤めていたこともありますね。予備校では進学指導の係でしたね。進学指導の仕事で一番辛かったのは、医学部に進学したいという希望をもって浪人生活を送っていた女子学生がいたんですけど、その子に、この成績だったら希望する医学部はちょっと大変だから、薬学部だったら大丈夫なんだけれどもどうですかって言ったら、泣き始めたのよその女の子が。これは仕事だといいながらすごく嫌で、何年かかっても医学部やってくださいよって言えば良かったなぁって、それはそのときの心残りですね。その子の顔まで覚えてる。
Q3.教師生活は充実していますか?
うん、新聞の学生は面白いですからね。反応もいいし、センスもいいと思うし、学生との関係っていうのは非常に楽しんでいますよ。やりがいがあると思う。ただ、新聞の学生っていうのはある意味でおっちょこちょいでね、アイデアを作るとか、発見が良いという面があるんですけれども、しぶとくないんだよね。そして、長くそういうものを保持しきれないんだよね。そういうアイデアを、しつこく追求する方法もないし、その必要も無いというところが、ちょっと残念なところではある。やっぱりアイデアのいい人っていうのは、しつこくないんですよ。それは裏と表なんです。
Q4.最近はインターネットで新聞が読めるとか、もうそういうのが当たり前になってきてるんですけど、今後新聞はどうなるんでしょうか?
新聞は、やっぱり淘汰されるでしょうね。地方新聞はそれほどの影響は無いかもしれないけど…。ラジオの運命とよく似た形になっていくんじゃないかと。ラジオはなくなっていないけれども、縮小再生産的になっているという部分はどうしても起こるんじゃないかと思います。紙はなくならないけど、姿を変えていくってことはあるね。インターネットについては、これはもう発展というか定着してしまいましたよね。まぁ、拡張していくとは思います。
Q5.これから新聞学を学ぶ人は何をすべきでしょうか?
これはもう、好奇心あるのみだね。ありとあらゆるものを見て面白いというような、自らの好奇心みたいなものを太らせるってことね。ありとあらゆるものが、自分にとって面白く見えるというまなざしが無いといけないんじゃないかって気がするね。訓練していく必要があると思う。
Q6.最後に、同志社の学生に一言お願いします。
さっきも言ったんだけども、つかんだアイデアを粘り強く発展させてくってことを期待したいね。アイデアはいいんだから、それを粘り強く発展させて、一つの形あるものに作り上げてくってことなんじゃないでしょうか。
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